ゲームと現実を混同する若者の実態をとくと見よ!

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あなたの努力はあなたにとって無価値でも私にとって価値があるものかもしれない

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サムネ用画像。流輝はいいぞ。首都圏ならあるから見つけたら飲め。

 

 突然ですが私は努力が嫌いです。理由は単純で、「私の努力」それ自体は無価値だからです。価値があるのは結果だけです。つまり価値のある私の結果のための「私の努力」には価値があることになります(≒価値のある結果のためのプロセスのみは価値が宿る)。残りは全て無価値です。時間を含む資源は全て無駄です。だから私は努力が嫌いです。永遠に好きになりません。だって見える期待値低すぎるもん。外したら絶対後悔するもん。無駄なことやって後悔なんてしたくないですから。

 

これだけではこの記事を書いた理由が見つからない?その通りでここからが本題です。

なぜ努力しろと言われるのでしょうか?
私ならこう答えます。「みんなが努力したから日本はこんなにも豊かになったんだ。だから努力しろと言っているのだろう。」

全員が努力しないで成長することってないですよね。

経済成長に必要なのは何か? 経済学チックに云うと「資本を投下して研究(本記事では特にここを『努力』と呼んでいます)、機械等の導入」→「技術革新による生産効率の向上」→「資本及び労働者への還元」→「資本を投下して研究」…という無限ループです。

但し、ニコニコの広告チケットガチャみたいなもので運が良ければ無限ループが続くのですが、「資本を投下して研究」しても必ず「技術革新による生産効率の向上」が起こるとは限らないわけです。何割かで失敗します。

ここで無駄な努力が生まれます。価値のある結果を産まなかった努力です。全体で見たときに必ず努力が必要なのにも関わらず価値のない努力が一定の割合で生まれます。全体から見たときに価値のある努力の一部であっても、個人から見たときに無価値な努力が必ず生まれてしまうのです。
努力が価値のある結果に変わるかなんてソシャゲの天井の無いガチャみたいなもので永遠に外れ続ける可能性だってあるんですね。しかも永遠に使いみちのないコモンしか引けない人が存在するガチャなわけです。
あとは全体で見てどれだけハズレ引く人が多いかによって「より多く努力したいか?そもそも努力したくないか?」が決まるわけですが私は現実見て判断した結果努力したくない側に属したいらしいです。

 

こんな私の立場だから言いましょう。

「あなたの努力はあなたにとって無価値でも私にとって価値があるものかもしれない」

いや、あると言い切っていい。

 

但し、必ずしもあなたが努力する必要はない。

 

そしてこのシステムの成功を担保するものは国民国家なわけですがそのあたりはまた今度。

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